
出典:帝国データバンク発行 帝国ニュース北陸版 2025年2月21日
株式会社ソロモン 代表取締役 砂原康治 (商品開発アドバイザー)
私の、起業1年目の売上は1億円でした。飛び込み営業の結果、販売力のある商社とつながったためです。しかし、販売力があるのは良いのですが、製品の説明をきちんとせず、ただ数だけ売る営業スタイルでした。その結果、エンドユーザー側ではクレームが発生したり、人身事故が起こったりしました。そして製造物責任により裁判を起こすというお客様も現れました。このまま取引を続けると会社が潰れると思いました。そこで考えた解決策は、その商社との取引をやめることです。当然、売上はゼロになります。さらに商品の立ち上げを手伝ってもらったため、タダで取引をやめるわけにはいきません。そこで交渉し、こちらから400万円支払って取引を終了することになりました。
多くの在庫を抱え販路を失いましたが、ホッとしました。しかし、ここからが本当の仕事です。製品は自社のものです。次は自社の販路を作る必要があります。
そこで最初に長野県の企業に営業することにしました。以前、商社経由で当社の製品を購入しているため、事情を説明する一方で直接取引を持ちかけました。ここを突破しないと先がないと思ったのです。売上がないため急ぐ必要がありました。一日で長野県内の営業所10カ所を訪問する計画を立て、早朝に石川県を出発しました。南は飯田市、東は軽井沢の近くまで行き、最後に更埴インター近くの本社を訪問しました。午後7時頃になっていましたが、運良く社長に会えました。上田営業所からの注文があったため、社長との話が進み、取引していただけることになりました。この結果は本当に嬉しかったです。
その日のうちに石川県に戻り、走行距離は高速道路約300km、一般道約700km、合計1000kmに及びました。当時、上信越道が未開通だったため、山道をショートカットして走りました。20代の頃にB級ライセンスを持っていましたが、18時間で1000kmは非常に厳しかったです。
取引を進める段階で、支払い条件を尋ねました。締め日が年3回しかなく、その翌々月に4ヶ月手形で支払いとのこと。初めて聞く条件で驚きました。そこで、その親会社であるM商事のホームページを調べ、担当部署に電話をしました。すると、マージン5%で代金回収をしてもらえることになり、納品月の翌月にM商事の手形で支払われる条件で取引可能となりました。
同時期に、建設機械メーカーの東北販社からも声がかかりました。営業担当者が当社の製品を見つけて取引を希望されました。これにより、K社との取引がスムーズに始まりました。K社の展示会に出るようになった際、展示会に出展している他のメーカーとも交流が生まれ、奈良県の企業の専務から「うちでもその製品を売りたい」と提案されました。企業規模ではなく、意欲ある会社と組む方が良い結果を生むと考え、快諾しました。その専務が建設機械メーカーC社を紹介してくれ、こちらも取引が始まりました。
これで自社の販路は東京のM商事、建設機械メーカーK社、建設機械メーカーC社、奈良県のS社の4つになり、利益も回復しました。また、製品と販路の両方が自社のものとなり、ユーザーからのクレームが激減しました。こうして事業の形が整いました。
製品を開発しても、適切な販路と組まないと事業は成功しないことを学びました。この経験を経て、その後、直販メーカーへと進化することになりました。
少し詳しく書いてみました。
年商1億円からの転落。崖っぷちの私が、1日1000kmを走って掴んだ「本当の事業」
序章:栄光の裏に潜んでいた経営危機
起業1年目にして、私の会社の売上は1億円に達しました。これは、スタートアップとしては誰もが羨むほどの順調な滑り出しに見えたことでしょう。その成功の理由は、偶然にも飛び込み営業で出会った、強力な販売力を持つ一社の商社との提携でした。製品は面白いように売れていきました。
しかし、その成功は脆い砂上の楼閣でした。提携先の商社は、たしかに「売る力」はありましたが、それは製品の価値や特性を顧客に丁寧に説明することを省略し、ただ「数をさばく」という営業スタイルによって成り立っていたのです。
その結果、製品が本来の性能を発揮できない、あるいは誤った使い方をされるケースが頻発しました。エンドユーザーからはクレームが殺到し、ついには人身事故まで発生してしまいました。そして、製造物責任(PL法)に基づき、裁判も辞さないというお客様まで現れたのです。
売上は順調に伸びている。しかし、その裏側では会社の社会的信用が根底から揺らぎ、ブランドイメージは日に日に毀損していく。このまま取引を続ければ、目先の利益と引き換えに、いつか会社そのものが社会から抹殺されてしまう。私は、会社が潰えるという現実的な恐怖に直面しました。
第一章:未来のための「ゼロ」へのリセット
下した決断は、唯一にして最善の選択でした。それは、売上の100%を依存していたその商社との取引を、完全に停止することです。
当然、売上は一夜にしてゼロになります。しかし、問題はそれだけではありませんでした。その商社には、資金も信用もなかった私の会社の製品立ち上げを、リスクを取って手伝ってもらったという恩義があります。ただ「取引をやめます」では済まされない関係でした。
交渉の末、私は会社から400万円を支払い、これまでの協力関係に感謝とけじめを示すことで、取引を円満に終了することに合意しました。売上がゼロになる上に、手元のキャッシュがさらに減るという、経営的には極めて厳しい判断です。
多くの在庫の山と、完全に消滅した販路。目の前には絶望的な光景が広がっていました。しかし、私の心にあったのは不思議なほどの安堵感でした。「これでようやく、自分たちの手で事業をコントロールできる」。本当の仕事は、ここから始まるのだと覚悟を決めました。
第二章:再起への疾走と、1000kmの先に見えた光
まず、自社の販生をゼロから作らなければなりません。最初のターゲットとして私が狙いを定めたのは、長野県の企業でした。理由は明確です。以前、旧商社経由で当社の製品を購入してくれていた実績があり、製品価値をすでに理解してくれている可能性が高い。ここを突破口にできなければ、未来はない。そう確信していました。
売上がない今、一刻の猶予もありません。私は「一日で長野県内の主要営業所10カ所を全て訪問し、最後に本社で社長に直談判する」という、無謀ともいえる計画を立てました。
夜明け前に石川県の自宅を出発。南は飯田市から東は軽井沢近郊まで、広大な長野県を文字通り駆け巡り、各営業所で事情を説明し、直接取引のメリットを訴えました。そして陽が落ちた午後7時頃、最後の目的地である更埴インター近くの本社に到着しました。
心身ともに疲労困憊でしたが、幸運にも社長がまだ社内にいらっしゃいました。日中の営業所訪問で、すでに上田営業所から「ぜひ取引を再開したい」という声が社長の耳に届いていたこともあり、私の話に真剣に耳を傾けてくださったのです。私の製品への想い、これからの事業方針、そして何よりこの日の行動力そのものを評価していただき、ついに「やりましょう」という言葉をいただくことができました。この時の喜びは、創業時の売上1億円達成とは比較にならない、心の底から震えるようなものでした。
その日のうちに石川県へとんぼ返りした時、車のトリップメーターは1000kmを超えていました。高速道路が約300km、残る700kmは、当時まだ上信越道が未開通だったため、険しい山道をショートカットして走った一般道です。20代の頃にレース用のB級ライセンスを持っていましたが、18時間で1000kmの運転は、人生で最も過酷なドライブとして記憶に刻まれています。
第三章:新たな障壁と、常識を破る解決策
しかし、喜びも束の間、次の壁が立ちはだかりました。取引条件の確認で提示された支払いサイトが、私の常識をはるかに超えていたのです。それは「締め日が年に3回しかなく、支払い是がその翌々月の4ヶ月手形」というものでした。つまり、商品を納品してから現金化されるまで、最大で半年以上かかる計算です。これでは、たとえ黒字であっても、運転資金が尽きて倒産してしまいます。
絶望的な気持ちになりましたが、諦めるわけにはいきません。私はその企業の親会社が、東京の大手であるM商事であることをホームページで突き止めました。一縷の望みをかけて担当部署に電話をし、事情を説明しました。すると、驚くべき提案が返ってきたのです。
「マージンを5%いただければ、我々が貴社と子会社の間に立ち、代金の回収を代行しましょう」
これにより、支払い条件は「納品月の翌月にM商事の手形で支払われる」という、劇的な改善を見るに至りました。わずか5%のコストで、キャッシュフローの問題を解決し、かつ大手商社との取引実績という信用まで得ることができたのです。常識に囚われず、問題の本質を探り、行動することの重要性を痛感した出来事でした。
終章:真の事業基盤の確立、そして未来へ
この長野での成功が、新たな好循環を生み出しました。
同時期に、ある建設機械メーカーの東北販社の担当者から連絡がありました。私の製品をどこかで見つけ、その可能性を信じて取引を希望してくれたのです。このK社との取引が始まると、事業は一気に軌道に乗り始めました。
K社の展示会への出展をきっかけに、人的ネットワークはさらに広がります。会場で出会った奈良県の企業S社の専務から「うちでもその製品を売りたい」と熱心な提案を受けました。私は、企業の規模や知名度ではなく、製品への理解と「売りたい」という意欲を持つ会社と組むことこそが良い結果を生むと確信していたため、その場で快諾しました。
すると今度は、そのS社の専務が大手建設機械メーカーのC社を紹介してくださり、こちらもスムーズに取引が開始されることになったのです。
こうして、私の会社の販路は、東京のM商事を核とし、東北のK社、関西のS社、そして大手メーカーのC社という、強力かつ多様な4つの柱によって再構築されました。利益は回復し、何よりも製品と販路の両方を自社で直接コントロールできるようになったことで、エンドユーザーの声が正確に届くようになり、以前のようなクレームは激減しました。ようやく、私の目指す事業の「形」が整った瞬間でした。
この一連の経験から私が得た最大の教訓は、「どれだけ優れた製品を開発しても、その価値を正しく理解し、適切な形で顧客に届けてくれるパートナー(販路)と組まない限り、事業は決して成功しない」という、極めてシンプルな真実です。
あの1億円の売上は、いわば他人の力で得た幻の成功でした。一度全てを失い、自らの足で1000kmを走って掴んだ新たな取引こそが、私の会社の真の創業だったのかもしれません。この経験こそが、後に私たちが中間業者を介さない「直販メーカー」へと進化していく、全ての礎となったのです。
